News

国際関係学科国際文化学科

チュートリアル特別講演会が開催されました。(7月14日)

  • Facebookでシェア
  • LINEでシェア
  • Xでシェア

 7月14日、チュートリアルの授業を利用して、60周年記念講堂において「東松島復興応援講演会」(地域連携センター主催)が開催されました。

  東松島市は、日本三景・松島の一角を占め、人口約4万人の美しい自然に恵まれたまちです。2011年3月11日に発生した東日本大震災。震度6強を観測した東松島市を、最大10mの津波が襲いました。浸水区域は実に市街地の65%にまで達し、1109名もの尊い命が奪われました。家屋も73%が、全壊・半壊の甚大な被害をうけました。
 東松島市の人々は、未曾有の大震災からの復旧・復興に向けて、それぞれのもち場で着実に前進しています。市街地の集団移設も実現しはじめ、5月には、地域住民の悲願であった仙石線が復旧しました。とはいえ、復興はまだ道半ば。震災の風化も心配される昨今です。

 特別講演会の講師は、太田将司氏(東松島あんてなしょっぷまちんど番頭)と相澤太氏(アイザワ水産海苔漁師)。東松島市で復興の先頭にたって活躍されている方です。講演の演題は「あの日で変わった自分の生き方~東松島に生きる熱き男達の復興への道のり~」。二人の「熱き男達」による地域の復興に向けた実践報告です。学生に地域住民の方々も加わり、総勢245名の聴衆が熱心に講演に聞き入っていました。講演会と終了後に行われた座談会のようすをレポートします。

海苔漁師の「意地」と「夢」――相澤太さん

 相澤さんは、大曲浜で海苔業を営むアイザワ水産の三代目。大曲浜といえば「皇室御献上の浜」といわれるほどに、腕のいい海苔漁師を輩出していることで有名です。相澤さんは、2004年23歳のとき、宮城県奉献乾海苔品評会で準優勝を獲得、史上最年少で皇室御献上の栄光を手にします。そして、2009年には優勝に輝き、再び皇室御献上の栄誉に浴します。

 海苔漁師としてすばらしい成績を残している相澤さんですが、しかし、はじめから名うての海苔漁師であったわけではありません。高校卒業後、海苔漁師の修行のために九州に渡ります。しばらくは、向上心のないダラダラ生活が続きました。愚痴ばかりの無為な人生を送る相澤さんを奮起させたのは、地元の老人が「すごい笑顔で」かけてくれた「九州は暑かろう」という一言だったといいます。「自分が恥ずかしくなった」と相澤さん。気持ちを入れかえて仕事に打ち込もうと思った瞬間だそうです。

 東日本大震災による悲惨な実体験を語ってくれました。たくさんの漁師仲間を失ったこと、避難所で知人を見つけても嬉しい気持ちになれなかったこと、震災直後には5人に一本のバナナしか支給されなかったこと、日を追うごとに治安が悪化していったこと等々。いざというとき、身の安全を守るために必要なのは「コミュニティ」であると相澤さんは力説します。
 甚大な震災被害にもかかわらず、相澤さんは海苔漁師を諦めませんでした。相澤さんが多くの困難を乗り越えることができたのは、全国の漁師仲間からの支援、そして、

自分は三代目として漁業の課題を解決していないではないか、漁業や地元の食の課題を自分なりに解決して次の世代に伝えたいという思いだったと言います。相澤さんはそれを「意地」と表現しました。農業では食えないとわかっていても田んぼを作る農家と同じように、ダメだとわかっていても夢を諦めない人間でいたいという意地。美学といってもよいかもしれません。

 相澤さんは、学生たちに向けて、コミュニティ(仲間)をつくることの大切さと、やりたいことをやって悔いなく生きることの大切さを訴え、こう結びました。
 「自分のカッパにみんなの『夢』を書いてもらいたい。将来、みんなが『夢』を叶えることができたとき、俺に会いに来て欲しい。一緒に飯でも食いたいと思います」。

みんなの「燃料」や「潤滑油」になろう!――太田将司さん

 太田将司さんは、自他ともに認める「東松島市の歩く宣伝マン」。千葉市の出身で、震災当時は南越谷で働いていたそうです。学生時代の阪神淡路大震災には心を動かすことはなかったけれど、東日本大震災をきっかけに、生まれてはじめて義捐金を募金し、生まれてはじめて「ボランティアがしたい」と思うようになったといいます。

 2011年8月「できれば地元の人と交流するボランティアがしたい」と思い立ち、夏祭りのボランティアを体験します。ところが、有意義だったはずのボランティア体験の帰路、「すごくいいことをした」と満足しきっている自分に気づき、その卑しさに愕然となります。仕事の日常に戻ってからも、このときの自己嫌悪の感情は消えるどころか、ますます「自分自身に腹が立ってしようがなかった」と太田さん。イライラ感を解消すべく、太田さんが出した結論は「東北に一年住もう」。困っている人を助けるのではなく「自分自身のために住んでみよう」ということでした。

 東北に移住した当時、地元の人々の心配をよそに、太田さんに焦りはまったくなかったといいます。「ボランティアではなく、一年住むことが目的だったから」。海苔漁師の船に乗せてもらったり、いろんな人と会い、さまざまな話を聞きながら、太田さんは「みんなの燃料になろう」、「やりたいことがあるけれど、どうやっていいかわからない」そういう人のエンジンを動かす「燃料」になってやろうと考えるようになりました。それ以後「燃料」や「潤滑油」としての活躍の場はしだいに広がり、現在では、7種類の名刺をもつ「東松島市の歩く宣伝マン」に。

 太田さんには、2014年夏から、はじめて「自分から提案する仕事」ができたといいます。東松島をブランドにするための『東松島食べる通信』の創刊です。コンセプトは“食発見は、町おこし”。単に生産者と消費者を繋ぐのではなく「地元が地元を自慢できるように、地元が地元をもっと好きになるように!」という願いを込めた情報誌です。“繋がることが僕らの武器”こんなふうにいえるように、東松島が心を一つにしているけるきっかけになればよいと太田さん。その笑顔は、何の衒いも自負も感じさせません。

人と人を繋ぐ架け橋に!-津田大さん

 講演会終了後、昼休みの時間を利用して、8137教室で、座談会が行われました。相澤さんと太田さん、座談会からは海苔漁師の津田大さんが加わってくれました。
 「東松島市はどんなところですか?」という学生のさりげない質問をめぐって、津田さんは次のような話をしてくれました。震災前は「東松島はどんなところ?」と聞かれれば決まって「何もないところ」と答えた。「どんな人がいるの?」と聞かれれば「たいした人はいないよ」と答えていた。けれども、震災後、地元にはこんないい人がいた、こんなすごいものがあったということに「自分でも驚くほど」気づくようになったと津田さん。

 「食べ物をつくる一次産業を盛り上げ、自分の生まれた環境を守って生きたい、そのために、人と人とを繋ぐ架け橋になれるよう心がけたい」――震災により、いったんは海苔から離れることを決意したという津田さん、力強く、噛み締めるようにこう決意を語ってくれました。

 最後に、本日の講演会が「復興支援」ではなく「復興応援」になっていることに注目したいと思います。地域連携センター東松山分室の中野泰彦氏は、「『応援』には、慈善や弱者の援助といった肩肘張った態度ではなく『ただいっしょになって仲間を励ます』というさりげない思いが込められているからだ」と言います。
 講演会後、国際関係学部の1年生を対象にアンケートを実施しました。「今後の大学生活で、ボランティア活動をしてみたいと思いますか?」との問いに、99%の学生が「チャンスがあればしてみたい」と回答しています。たいへん頼もしい数字だと思います。
 今回の講演会を機に“東松島応援活動”をはじめてみませんか! 関心のある学生は、管理棟2階(キャリア支援課隣)の地域連携センターを訪ねてみてください。