大東文化大学の前身校である大東文化学院は、1923(大正12)年9月20日に設立認可を受けました。その初代総長に就任したのは、のちに第35代内閣総理大臣となる平沼騏一郎でした。東京大学の前身である帝国大学法科大学を主席で卒業し司法省へ入省した騏一郎が第二次山本権兵衛内閣の司法大臣に就任し、さらに急逝した前総長の後任として日本大学第二代総長に就任した年でもあり、多忙な中で学院総長をつとめました。
また大東文化学院が創設された同年9月1日には関東大震災が起こりました。広範な地域に甚大な被害がもたらされ、設立母体であった大東文化協会の事務局建物も焼失してしまうことになります。未曾有の大災害の影響を受けつつも大東文化学院の開校準備は着々と進められ、翌年1月11日に始業式が行われました。
始業式における騏一郎による訓辞には、次のような一節が見られます。
「諸学科を担任する教授は、孰れも各学派の泰斗にして当代の碩学大儒なれば、諸子は研鑽の功を積み他日其の蘊奥を究むるの階梯を成すに於て万遺憾なかるべし」
このように述べて、錚々たる教授陣たちによる最高の高等教育機関であることを自負した大東文化学院草創期は、多くの著名な学者が名を連ねました。井上哲次郎の哲学、鵜沢聡明や山岡萬之助の法学、騏一郎の実兄でのちに早稲田大学学長となる平沼淑郎も経済学で教鞭をとり、中でも漢学は松平康國や牧野謙次郎、内田周平が担当しました。まさに当代随一と評された面々でした。官学・私学を問わず、その道の第一人者たちを幅広く集めることができたのも、騏一郎の広い人脈によるところが大きかったと考えられます。騏一郎は学科課程制定委員会会長として草創期大東文化学院の学科編成の責務を負っていました。その学科課程に著名な学者陣を迎えたことについて、「学生諸子は善く此の点に留意し其の期待に負かざることを努むべし」と学生を鼓舞しました。そして騏一郎のその期待に大東文化学院の学生たちは応えてきたのでした。
平沼騏一郎は1925(大正14)年1月に総長職を辞します。その後、さらにごく短期間ではありましたが1926(昭和2)年に第三代大東文化協会会頭もつとめ、騏一郎は草創期大東文化学院の礎を築いたのでした。