今から72年前の1943(昭和18)年10月2日、「在学徴集延期臨時特例」(勅令)の公布・即日施行により学生生徒の在学徴集延期が停止され、文系を中心に徴兵年齢に達する者の臨時徴兵が行われた。同年10月21日、雨の降りしきる神宮外苑競技場にて文部省主催の出陣壮行会が行われると、同年12月1日に陸軍の学徒兵入営が、同月10日に海軍の学徒兵入団がなされ、彼らは主に下級将校として各地へ配属された。多くの青年たちが在学途中の志半ばにして戦地へと赴いたのであった。「学徒出陣」はこうして開始された。大東文化学院生も徴兵され、数人が雨の壮行会に参加していたことは確認されているが、正確な人数や人名など詳細は不明のままである。
教育機関への戦争の影響はさらに早いものであった。軍事教練は1925(大正14)年より義務付けられ、大東文化学院でも同時期より配属将校のもと、小仏峠の踏破や銃剣等を含む各種教練が課外にて行われていた。卒業写真を含む当時を撮った写真には、配属将校や軍事教練の様子が多く残されている。1937(昭和12)年より農村や工場における労働不足を補うため「自主的」な学生生徒の勤労奉仕(自己鍛錬)が開始され、翌1938(昭和13)年4月には国家総動員法に基づき集団勤労作業が励行されることとなる。これらの集団勤労は、「勤労動員」のちに「学徒動員」と称され、学生生徒たちは戦時下における土木工事、食糧増産、軍需物資の生産などに従事することとなった。1941(昭和16)年の文部省訓令によって報国団(報国隊)が結成されると、課外活動としての勤労奉仕作業は一転して正課となった。報国団は陸軍の軍編成を模倣したもので、本学では総長鵜沢総明を団長(会長)として編成され、教授たちが各班長・大隊長に就いた。同年からは修業年限短縮処置もはじまり、短縮は当初3ヶ月であったが、後に6ヶ月短縮となって9月に繰り上がっての卒業が強いられることとなった。
1943(昭和18)年6月以降、それまで年間30日以内の勤労が義務付けられていたのが年間60日へと改められ、翌年からは常時動員として通年の勤労が強いられることとなった。1945(昭和20)年には本学でも授業停止状態となり、新入生は入学直後から動員先へ赴かねばならず、同年の入学式は前橋の理研で行われた。大東生たちの動員先はもともと千葉県の農家などでの食料増産が主であったが、戦況悪化にともなって次第に大規模で本格的な軍需工場、川崎市の昭和電工、浦賀ドック、中島飛行機などへ派遣されるようになった。ただし、そこでも同行した教員たちから論語などの講義を受け、持参したわずかな書物を読み、限られた物資のなかで同志たちとの議論で日常生活を楽しみながら、大東生たちは学問に邁進していた。
こうして学徒動員が行われると同時に、学内に残っていたごく少数の大東生たちは「図書疎開」の決行を決意する。軍事教練や勤労作業に多くの時間が割かれ、食券も人数分行き渡らず慢性的な食料の不足に喘ぎ、深刻な栄養低下や罹病者の頻出に陥っている状況であったが、大東学問は守らねばと、手分けをして書物を戦火から守るための「疎開先」を必死で探したのである。ようやく武蔵野線の所沢にあった農家が土蔵を貸してくれることとなったが、戦時下で交通事情も悪く、当時池袋にあった校舎から書物を運ぶのは容易ではなかった。1944(昭和19)年8月の炎天下のさなか、手分けをして蔵書類1,000冊あまりの移管がようやく済んだ頃には戦況はますます厳しさを増し疎開者も続出、実質的に授業は休講状態となっていく。
1945(昭和20)年4月13日深夜11頃から14日未明にかけて170機のB29爆撃機が来襲、焼夷弾を投下した。大規模な東京・川崎空襲により池袋校舎は全焼、学内に残されていた蔵書数万冊も焼失した。空襲後2日経った16日になっても池袋周辺は煙や火が燻り、辺り一面焼け野原であったという。中野駅から先の電車は不通となっており徒歩で向かうしかなかったが、目白駅前から池袋校舎までの道なりにある下水道には大東文化学院のものと思われる漢籍の一部が折り重なり焼け焦げていたとする記録が残されている。ただし、大東生の戦時下の生活、本学における学徒出陣や教員を含む戦没者の全容等は今なお明らかでなく、課題となって残されている。