大東文化大学の歴史大東文化大学の歴史

contents #03

ヒストリア

Historia

大東文化大学幼少教育研究所と石井勲

1966(昭和41)年4月、東松山キャンパスが開設される前年のこと、「大東体育部」「大東文化大学学生自治会体育連合会」が設立されました。体育部の主目的は、既存の運動部(当時16団体)をまとめ体育連合会として、学生の健全で活発な身体・精神を涵養することにありました。この体育部の活動と学生自治会体育連合会の活躍によって、1970年代に大東スポーツは花開くこととなります。

1970(昭和45)年4月28日、大東文化学園理事会において「大東文化大学幼少教育研究所」設置案が決議されました。認可された「設置趣意書」には、同年5月1日付で幼少教育研究所を設置するとともに、その目的や研究内容の計画などが示されていました。

同目的には、「本学の歴史的経過を基礎として、従来本学のとってきた、社会教育並に教員養成部門の充実に資するため、国内外にこれまでややもすれば等閑視されていた、児童、幼児教育についてその未開発面を研究し実験する場として本研究所を設置し、将来の日本の教育指導体系に貢献せんとの意図から発想されたものであります。

幸に盁進学園が本学の有機体の中にありその発達段階ごとの研究がなされること、及び、財団法人幼児開発協会等の支援も得られることとなったので、環境的にも好都合であり、別に企画している本学短期大学部の設置にも有力なる裏付けとなるので、これに加えて教育研究機関として本研究所を設置する。」と書かれています。

ここに記されている「短期大学部の設置」案は教育学を専攻とする短大設置を模索したもので、さらに議論を繰り返した後、短大案を発展させて開設されたのが現在の文学部教育学科でした。

幼少教育研究所の研究内容としては、「1.幼児教育についての基礎研究。特に零歳から学令前までの幼児に対する教育のあり方についての研究」「2.母親教育について。母と子の学級開催」「3.児童心理研究」「4.幼児教育相談所の開設」「5.講演会・講習会の開催」「6.幼児の発達段階に於ける学校体系の改革についての研究」と記されました。

新たに開設された幼少教育研究所は所長に石井勲を迎え、職員(嘱託)2名の計3名をもって活動を開始します。所内には研究員(兼務)の配置も規程上認められていましたが、研究員が増員されることはなかったようです。

所長に就任した石井勲は、本学の同窓生でした(本科14期、高等科17期生)。石井は1919(大正8)年9月2日山梨県に生まれ、昭和12年4月に大東文化学院本科へ入学、さらに同高等科へ進みました。在学中「説文解字」の授業を受け、漢字の成り立ちやその構造へ興味を持つようになったと言います。1942(昭和17)年12月、戦時下の三ヶ月の繰上げ卒業と同時に応召され、陸軍航空本部へ入営、敗戦後は1948(昭和23)年より自身の母校であった山梨県立都留高等学校で英語科および国語科の教諭となりました。しかし翌々年には東京八王子市の中学校教諭へ転じ、さらにより幼少期の漢字教育の実態に興味を持ったことから、小学校教教諭免状を新たに取得して新宿区内の小学校で教鞭をとるようになりました。この間、昭和20年代に「小学校における漢字教育」の実践を重ね、1960(昭和35)年にその経験をもととした研究報告を全日本国語教育協議会で行っています。同年、その研究的関心をもとに大東文化大学東洋研究所研究員に着任、同研究所紀要『東洋文化』No.2・3(1962年3月)に「新しい漢字教育の提案」を発表しました。1966(昭和41)年3月には小学校教諭を退職、1967(昭和42)年4月より大東文化大学文学部で教育学関連の科目を担当する非常勤講師をつとめました。その後は幼少教育研究所所長として大東文化学園評議員も兼務しました。

石井の漢字教育実践は、「石井式(石井方式)」と呼ばれました。石井式とは端的に言えば、子どもが日本語標記を修得するにあたり、社会で一般的に使用される「かな」「漢字」のどちらかのみに統一して教える、というものでした。石井は、幼児期にひらがなを学び、その後にそれに当てはまる漢字を覚えていくのは無駄があると提唱したのです。石井自身の長男の成長を見ても、幼稚園児くらいの子どもは漢字を絵のように捉えてぐんぐん覚えてしまうので、この時期に漢字に触れさせるのがいいと実体験をもとに考えたものでした。

さて、幼少教育研究所が開設された1970年前後の本学は、板橋校舎と東松山校舎の二つの広大な基盤キャンパスを整備し、学部を増設、大学院における各専攻科を次々に開講することで学生数を大きく増やすなど、教育と研究の充実を一気に図った時期でした。拡大の一途を辿っていた本学の中で、幼少教育研究所の位置は書道文化センターや語学センターなどと並び、大学附属ではなく学園の附属機関として開設されたものでした。つまり、後に設置されることとなる大東文化大学附属青桐幼稚園はもちろんのこと、1972~77年まで幼稚園から高等学校までを持つ「盁進学園」を吸収合併して経営協力を行っていたことも関係し、学園一貫教育基盤の増強という意味で、所長に就任した石井の幼少教育に関する学識に期待したものだったと考えられます。

しかし、石井は幼少期における漢字教育に強い関心を持ってはいましたが、それは大東文化学園が求めた幼少教育研究所の設置目的や研究内容と必ずしも一致するものではありませんでした。実際、研究所所長として全国各地の小学校や幼稚園で講演会や研修会をいくつか開催した記録はあるものの、研究所として著しい研究活動記録は残されていません。1972(昭和47)年4月、文学部に教育学科が開講し、同時に大東文化大学附属青桐幼稚園も開園、本学における教員養成や幼児教育が本格化しました。一方の石井は1973(昭和48)年4月より新たに「石井教育研究所」を個人で創設、自身の考える幼児期における漢字教育研究を継続しつつ、1979(昭和54)年5月に青桐幼稚園園長に就任しました。この間、大東文化大学幼少教育研究所はごく短期間でその役割を終えることとなったのでした。幼少教育研究所は閉所となりましたが、今も大東文化大学附属青桐幼稚園の中では日常的に漢字と触れ合う教育がなされていますし、石井式漢字教育は全国各地の幼稚園で実践継承されています。

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