大東文化大学の歴史大東文化大学の歴史

contents #03

ヒストリア

Historia

「九段校舎」と大東文化学院一期生

大東文化学院は、1923(大正12)年8月22日に設立申請を行い、同年9月20日に設立認可を受けました。ただし、設立申請の直後の9月1日に起きた関東大震災の影響で「神田校舎」が全焼してしまったため、開校は延期となりました。設立申請時には開校日を10月1日としていましたが、9月15日になって「校地位置変更届」を提出した際には開校日は未定でした。

「神田校舎」は、元東京工科学校(現在の日本工業大学)の複数あった校舎建物のうちの一棟を譲り受けたものでした。最寄りには小川町駅や神保町駅があり、神田学生街の中心に位置していて、学問を志す青年たちの憧れの地でもありました。一方、震災の前々日の8月30日、大東文化学院は新校舎を入手していました。この日、大東文化学院は法政大学との間に「土地建物売買仮契約書」をやり取りし、校舎建物と校地とをあわせて「拾五萬圓」で売買した記録が残されています。これが大東発祥の地となる、「九段校舎」でした。真っ白な校舎壁面をぐるりと囲む梧桐(青桐)が印象的であったことから、校章モチーフに使われるなど現在まで青桐は大東のシンボルにもなっています。九段校舎の最寄りには市電の九段下や九段上があり、開校からしばらくすると飯田橋駅も開業されて、通学はより便利になりました。

さて、1923(大正12)年12月になって行われた第一回入学試験は、本科および高等科ともに数倍の受験倍率となったと言われています。本格的な漢学のための高等教育機関、しかも授業料は無料で教科書もすべて頒布され、さらに給費制度も完備という、当時としても希有な特典を持った学校の誕生は、経済的理由により進学を諦めていた青年たちや、漢学の道をさらに追求したいと願っていた中学校などで教壇に立っていた現役の漢文科教師たちに希望を与えました。

難関試験を突破した学生たちとともに、大東文化学院は九段校舎一棟のみで翌年1月に開校日を迎えました。もともと前年8月の設立申請段階での学生定員は、本科300人および高等科100人程度と規定されていました。しかし、神田校舎を焼失したため学生収容が叶わず、本科150人(1学年約50人)および高等科50人(1学年約20人)程度へと定員数を半減させています。なお、本科入学は中学校(旧制)卒業程度の学力が必要、高等科入学は「中等学校漢文科教員資格」を持っているか、あるいは専門学校漢文科卒業程度の学力が必要であると定められていました。特に高等科一期生は現役の漢文科教員や中学校校長経験者などをはじめとして、すでに相当の漢学の実力や知識を持つ者が集い、30代や40代も珍しくなかったと言います。

大東文化学院は、創設時に本科3年高等科2年(翌年に3年間へ延長)とする修業年限を設けていました。もともと開校予定日を10月1日としていたので、秋入学を予定していたのかと思うところですが、実は違いました。最初から学則において「4月入学、3月卒業」と定めていました。1918(大正7)年に大学令が公布されて以降、帝国大学を含む高等教育機関の入学時期は一律に4月へと整備されていました。したがって、大東文化学院でも4月入学を予定していました。つまり、当初より本科高等科ともに、一期生だけは3年半学ぶことが想定されていたということになります。被災によって予定よりもやや短縮されましたが、一期生は3年3ヶ月という少し長い期間在学し勉強できる「特権」を有し、その後に続く大東文化学院の学問の礎を築いたのでした。

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